地方自治論

この論点は放送大学大学院、地方自治論(T)(U)(V)(W)の私のレポートです。

(T)伝統的地域社会の崩壊と弱体化はどのようにして起こったか。

(1)人間は社会的動物といわれる。−古代ギリシャの哲学者アリストテレス−
それは、人間は自分一人では生活していくことができず、何らかの形で他の人間と共同生活を営まなくてはならないからである。人間の共同生活の基礎、それは地域社会であるが、それが今崩壊の危機を迎えている。

 日本の伝統的地域社会の基本形は村落であるが、日本の村落の特徴は第一に水田、稲作を中心とした農業を営むことである。しかし個々の農家は経済的自立性に乏しく、何らかの形で家々が連合して共同的に問題を解決するしかなかった。家連合としての村落がここから生まれる。

 日本の伝統的地域社会は次のような仕組みをもっていた。農業を生活の基礎とする村落の場合、水田稲作の場合、そこでは水と山をめぐる共同が共同生活の基礎である。村人は水をめぐる共同を必要とし共同で水源を確保し、共同で水路の保全、維持を行ない、初めて稲作が可能になり共同生活が成り立っていた。更には、屋根ふきのための共同組織がつくられ、道路の補修維持等道普請迄、共同問題処理を要する領域が広く存在し、利害関係、日常的な接触の連続、又意識の面でも共同性は強く維持され、村落共同体と呼ばれる強固な結合が生まれていた。

 そしてこれらの組織の指導者として庄屋などの名望家、有力者が管理の責任を負い、自前で実際の実務は個人的な従者である雇い人か小作人が当たった。

(2)伝統的地域社会は明治以降弱体化が進んでいたのであるが、高度成長の過程でその弱体化ないし、解体がいっそう急激に進行したのである。大きくは、それは都市化という社会変動の結果であった。
人口の都市集中である。

 明治以降大量の工業労働力が必要となったことから、人口の都市集中は急速に進んだ。明治初期3400万人の総人口のうち、都市人口は10%に満たなかったが太平洋戦争直前の1940年(昭和15年)には38%に達した。
その意味で人口の都市集中は決して戦後に限られる現象というわけではない。

 藩政期から引き継がれた。その後もかなり強固に維持されてきた家を中心とした家族主義的意識構造は、都市住民の核家族化の進展と共に崩れてくる。それは家族連合としては村落、伝統消費型都市の社会構造を弱体化される最大の要因でもある。

 戦後の第一の特徴は1950年、朝鮮戦争をきっかけに高度経済成長が開始された。これと共に人口の急激な都市集中が始まった。

 第2期は、1960年代、70年代の特徴は大都市圏への人口集中と大都市周辺の郊外化である。
大都市周辺部には広大な新市街地が形成され、その一部は1955年に設置された日本住宅公団である。団地族などと呼ばれた新住民も生まれたが、新旧住民の対立も生まれた。居住する地域社会にはほとんど関心や関係をもたない人々の大量発生である。

 第3期の1980年以降は一定の静止状態に入り小さな静止期を迎えた。
都市住民の第二の変化は、モータリゼーションの進展による生活圏の拡大である。生活圏域の拡大は当然の結果として地域の閉鎖性を取り除き、依存度を生活行動の上でも心理的にも縮小させた。

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(U)地方自治体の首長と議員の社会的背景の変化。
−地方分権でその担い手になれるか−

 首長と議会とは選挙によって選ばれるので権力の源泉において対等と考えられるが「執行機関優位の首長主義」と性格づけられる。従って議会の監視機能は昨今、弱体化しつつあり国会の議員内閣制の与党にならい、オール与党体制になりつつあることは地方議会の否定にもなりかねない。そして首長は時には権力を私物化して多選が増えており「地方自治は民主主義の学校である」と語られるにしては地方分権が叫ばれる今日、その受け皿があまりにも心もとないと考えるのは私だけであろうか。

 政治学の古典のジェームス・ブライスの「近代民主政治」「1921」でも「小地域における自治が市民に必要な能力形成をたすける」と地方自治の重要性を説いております。

 けだし我が国の地方自治は、明治以来その時の国家の必要に応じて、制度的にはいろいろの変遷をとげてきたが、戦後の憲法によって地方自治主権が位置づけられ日本国憲法93条は「地方自治体の長、その議会の議員及び法律に定める。その他の委員はその地方公共団体の住民が直接これを選挙する」と規定した。これに基づいて地方自治法は自治体の種類や規模の区別なしに画一的な公選首長と公選議員の制度を定めている。

 個々の議員が何を代表し、どのような行動をとるかに関して、立候補する際の支持基盤によって、@名望家型、Aキャッチオール型、B利益代弁型、C政治従属型に分けられるが、これらの類型は住民の代表関係で見られる無所属型、議員政党型(自民党のケース)、準議員政党型(民主党、社民党のケース)、組織政党型(共産党、公明党のケース)に分けることができる。

 明治憲法が期待した地方名望家型の議員は少なくなり、職業としての地方議員が増加している現象がある。地方分権化が進むと議会の持つ役割は大きくなるが、議会の活性化が図られ、住民の意向に敏感な議員をどれだけ多く選べるか、今こそ選挙民の良識が問われている。

 国に収めた国税も、国庫支出金、地方交付税等で地方自治体に還元され、歳出の3分の2は、地方自治体から支出されております。それだけ生活に密着した地方自治は大事であり地方自治は「民主主義の学校」と言われている由縁です。私たちは、最も身近な地方政治にもっと関心を持ちたいものです。

行政システムに監査とチェック機能を取り入れる

 今 政治と金、そして政治を利用しての錬金術、行政との癒着が常態化して行政不信の温床となっていることは、ご案内の通りであります。これらの問題を起こさないようにするには、どうするか。それは、行政システムの中に監査とチェック機能を司る行政システムを組み込むことであります。本来は、議会がその役割を果たすべきであるが?

 イギリス等では、この組織は、どういう行政が行われているかを常に監査、チェックされております。わが国でも、取り入れられる点もあります。破産自治体、北海道夕張市にならない為にも。

 このチェックは、組織の中でのチェックを第一段階として外部に設けた独立組織をこの行政組織の中のチェック、会計監査を含めて行政組織の政策立案、実施部門の両者を監査するものとする。

 この独立組織では、公認会計士や弁護士を多数採用し、プロの組織にすることが必要です。ただし、人数的に限りがあることから、基本的な監査とチェックは行政内部の監査機関に任せ、その活動をこの独立機関で監査することによって内部の監査がきちんとできるような体制にする。

 この独立監査機関は、強い独立性を持ちながらも基本的には、英国と同様、議会にその活動を報告するようにすべきだろう。全体的な流れとして個人個人の責任を問うよりも、全体としていかにシステムを向上させるかに重点を置かれるべきである。

 また、世界的にも有名になったカイゼン(改善)は、行政組織にも必要であり、常により簡単でわかりやすい制度に仕組みを作っていき、肥大化した行政をスリムにしていく効果もあるでしょう。

 このようなシステム創りをすることが、真の行政改革であると思います。

参考資料 菊川智之 著  イギリス政治はおもしろい
PHP新書より

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よい地域の条件(職場の教養(社)倫理研究所より)
マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』をこう結んでいる。

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(V)
(1)日本における伝統的地域社会とはどのようなものか。

  日本の伝統的な地域社会の基本形は村落にある。日本の村落の特徴は第一に水田稲作を中心とした農業を営むことである。

  小規模な水田と畑をもった自作農を中心とする農家の家業として農業を営んできたことである。もちろん、戦前は地主・自作・小作といった階層的構成をもっていたが、一部豪農のような例外を除けば、一家だけで稲作に必要な水を確保することができないなど、経済的自立性にとぼしく家々が連合して共同的に問題を解決するほかなかった。

 これが家連合としての村落がここから生まれた。

 生活共同体としての家が他の家と複合体として結びつき、組、講結いなどの組型家連合をつくり、この場合、家は今日の家族と異なり、消費生活の共同単位であるだけでなく、農業という家業の経営単位であって、構成員は血縁・近親者に限らず奉公人も含まれ、大きな同族的家連合を構成することも少なくなかった。

  これらの仕事を通じて、その重合した共同単位が人々によって強く意識されたのが自然村であり、明治期以降も地域社会生活上の単位として存続してきた。

  自然村も東日本の村落には同胞型の村落が多く、本家・分家の関係が強く縦型の社会構造であり、これに対して西日本の村落には、同族統制の力が弱く、相対的に平等な家々が連合として村落が形づけられていると言われている。

  又家連合は村落だけでなく、都市のなかにも本家・分家などの同族の維持発展を共通の目標として機能してきたことも事実である。

(2)その戦後における解体ないし弱体化の、原因、背景はどのようなものであったか。

 伝統的地域社会は明治以降弱体化が進んでいたのである。高度成長、人口の都市集中により急速に弱体化が進んでいった。

 農村から都市に移動した若年層は、家族の形態としては夫婦と子供の(核家族)であり、夫婦単位の生活の中心という社会構造との変化にともなり住民の意識の変化がとげられている。

 1960年代、70年代で特徴は大都市圏への人口集中と大都市周辺の郊外化が進み都市部に通勤する人々を大量に生み出し、朝早く出勤し、夜遅く郊外住宅地に帰宅するホワイトカラー層を中心に居住する地域社会に関心と関係を持たない人々を生み出した。

 1960年代70年代に比べて1980年以降は地方圏から大都市圏への大規模な人口流入はほぼ静止状態に入った。

 グローバリーゼションにともなう新たな働きが静止期を迎えたが最近においては、都市部の中心でも郊外から中心部への移動が進んでおり、私の見解であるが都市部内での過密、過疎が初まったのではなかろうか。

 又モーターリゼーション等の交通機関の発達により生活圏が拡大し、当然の結果として地域の閉鎖性を取り除き、人々の閉鎖的な地域に対する依存度を生活行動の上でも心理的にも縮小させる働らきをもった。

 都市社会へ雇用を求め移動した多くの人々は、農村社会の拘束性からは解放され自立性は保証されたが孤独となり、再び混みのある集団的帰属を求めている人々が増えていることも又事実である。

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(W)地方分権改革は、権限の移譲や法令の自主解釈権の活用、条例制定権の活用などによって進められると考えられる。この点を念頭において、地方分権のポイントと課題を、環境行政または福祉行政に即して述べなさい。

 憲法第94条は「地方公共団体はその戝産を管理し事務を処理し及び行政を執行する機能を有し法律の範囲内で条例を制定することができる」と規定している。
「法律の範囲内」という制約はあるものの、自治体は大幅な自由な裁量権をもつべきであった。しかし地方への機関委任事務は国から決められたものであり、都道府県事務の7〜8割、市町村事務の3〜4割を占めるといわれていた。団体自治の理想からするとおよそ「地方の自治の本旨」にもとずいた状態ではなかったのである。

 従って地方分権改革前には「自治体は国の下請け」といわれたことがあった。機関委任事務制度のもとでは、自治体の長は独立性を持たない国の内部組織となっていた。

 そこで機関委任事務制度の廃止と自治体の事務化を含む多くの制度改革が「地方分権一括法」の施行により2000年4月から施行された。機関委任事務のほとんどは「法定受記事務」と「法定自治事務」に振り分けられた。

 地方分権改革によって「条例制定権が拡大した」。といわれることが多いが、それは可能性の拡大にすぎず、制定しない限り意味はない。

 地方分権一括法によって改定された地方自治法第1条は、自治体は「住民の福祉の増進を図ることを基本として地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担う」と規定している。−第1項
そして「住民に身近な行政にできる限り地方自治団にゆだねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割りを分担するとともに地方公共団体に関する制度の策定及び施策の実施に当って地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない」(第2項)と定められた。

 従って今迄の都道府県と市町村の福祉行政は、なおその地域の福祉行政の主体として明確になるしかなかった。

 それは福祉行政そのものが都道府県知事や市長、村長に対する「国の機関委任事務」がその大部分を占めていたため、国の事務という観念が強く国の出先として事務を処理するという域を出られなかったことにもその理由がありそうである。

 福祉関係三審議会は1989年3月に高齢化社会に向かって提言を行ない、福祉諸制度の社会的基盤を急ぐべきである。そのためにも社会福祉の運営と実施にかかわる市町村の役割を重視するよう提言し、これが契機となり、社会福祉の地方分権化の方向を決定ずけるような役割りを担ったと評価されている。

日本経済新聞 2009年3月3日(火) 埼玉に問う −読者から− 「北関東州」民意問え■観光、危機感持て■誘致成功の陰で

日本経済新聞 2009年3月3日(火)
埼玉に問う −読者から−
「北関東州」民意問え■観光、危機感持て■誘致成功の陰で

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